こんにちは!元フリーランス&パラレルワーカー、現IT系会社員のaiです。
これまで「まずはやってみよう」をモットーに、実績ゼロからフリーランスとして活動を開始し、体当たりでいろいろなことにチャレンジしてきました。大変なこともたくさんあり、結果会社員に復職する形となりましたが、先日の転職ではご縁あってなんと新卒時の2倍の月収にてオファーをいただくことが出来ました。これもひとえに、縁に恵まれたことと、私を信じてやりたいことをやらせてくれた周囲のサポートのお陰だと改めて感じています。
ちょうど4月で社会人6年目を迎えたということもあり、これまで私がやってきたこと・意識してきたことについて、改めて振り返りながら整理していきたいと思います。今回は前編として、私の学生時代の原体験から、フリーランスとして実績ゼロで独立開業するまでについてお話しします。
学生時代の原体験:イギリス短期留学とスウェーデン一人旅が人生の転機に
イギリス短期留学:得意だったはずの英語が現地で通じない。失望をバネに猛勉強
元々英語が好きだったので、大学では文学部英米文学を専攻しました。2年次の時、学科の交換留学プログラムがあったので参加したのですが、それまで得意だと思っていた英語がいざ現地に出てみると全然歯が立たなかったことに落胆。「英語系の学科なのに、英語もろくに喋れないなんて恥ずかしい」と、帰国後は一念発起して猛勉強。
また留学する経済的余裕はなかったので、国内留学のような環境を構築し独学でひたすら勉強。通学時は常に洋楽を聞く、DMM英会話で毎晩深夜遅くまで英会話レッスンをする、国際交流パーティーへ一人でも参加、発音矯正サイトで徹底的にネイティブ発音に近づける、オンラインでLanguage Exchangeの友達を作り互いに言語を教え合うなど、半年間とにかくスピーキング・リスニングを徹底して実践。結果、独学でTOEIC840点、高校の時から目指していた英検準1級を取得することができ、「語学力アップのために留学は必ずしも必要な手段ではない」と大きな自信になりました。
スウェーデン一人旅:国民一人一人が、主体的に人生を送っている様に衝撃を受ける
そんなこんなで時は流れ、あっという間に3年となり就活を考える時期に。周囲はサマーインターンなど本格的に活動を開始している人も少なくなかったのですが、漠然と「海外に関わる仕事がしたい」という思いはあったものの、特に具体的に何かやりたいことがあったわけでもなかった私。
焦って決断したくなかったのと、そもそも自分という人間を見つめ直してみたかった、自分がどこまでやれるのか試してみたかったのもあり、親の反対を押し切って一人旅を決行。
行き先は、ちょうどその時スウェーデン出身のシンガーソングライター・Ulrik Muntherにハマっていたこともあり、スウェーデンに。同い年の男の子だったのですが、同年代の歌手は恋愛ものなどshallowな歌詞が多い中、人生について深く考えさせられるような曲と歌詞にすっかり魅了され。こんな歌手を輩出するスウェーデンとは一体どんな国なのか、「北欧の日本」というのは本当なのかと、居ても立ってもいられなくなってしまいました。
Cause what if there’s no tomorrow?
Ulrik Munther “Dolphins”
What if the time we borrow
Was about to run out
Where would you be?
What would you do, right now?
Yeah, what if there’s no tomorrow?
What if the road we follow
Was about to run out?
Where would you be?
What would you do, right now?
実際にスウェーデンに行き同年代の男の子や女の子と話してみると、皆仕事も学校もせずニートのような暮らしをしながら、全く焦りがなかったことに驚きました。よくよく聞いてみると、スウェーデンでは高校卒業後すぐに大学に行く方が珍しいそうで。卒業後は親元で暮らしたり仕事をしながら、その後の人生についてゆっくり考えるのだそうです。
実際に私が会った現地の友達は、趣味の楽器をいじりながら音楽を作ったり、季節労働者のような暮らしをしながら母親と一緒に暮らしていたり、大好きな日本語の勉強に没頭していたり。与えられた選択肢について、十分に思慮を重ねながら主体的に選び取り、人生そのものを楽しんでいるようでした。もちろん、これがスウェーデンの高度な社会福祉制度の上に成り立っているという側面は否めませんが、就活=人生の終わりのように感じ、将来に漠然とした不安を抱えていた私にとっては大きな衝撃。多様な価値観・人生観に触れ「こんな生き方もありなのか」と、それまで感じていた息苦しさが和らぎ、少し楽になりました。
通訳案内士という職業を知り、フリーランスのキャリアを描くように
たくさんの出会いと気づきに恵まれた、スウェーデン一人旅。スウェーデン人の他にも、イタリア人ジャーナリストファミリーや、スペイン・カタルーニャ地方のバックパッカーカップル、英語を勉強に来ているハンガリー人元プログラマーなど、たくさんの人に出会いました。
北欧スウェーデンにおいてただでさえ珍しいアジア人、しかも日本人女性の私。日本から来たことを話すと、「黒澤明監督の映画良いよね!やっぱり日本でも人気?」「娘がジブリの映画で、ヴァイオリンを弾く男の子と女の子の話が好きなのだけど、タイトルなんだっけ?」「渋谷のスクランブルは人がすごいって聞くけど、こっちとは比べ物にならないぐらいやっぱりすごいの?」など。心の底から興味を持ち、たくさんの質問を投げかけてくれました。
しかしながら、私はそのどの質問にも満足に答えられず。「無知の知」とはまさにこのこと、日本代表として現地に来ていながら、日本という国についてほとんど何も知らない無知であったことを初めて知ったのです。「せっかく日本について興味を持ってくれて聞いてくれているのに、何も知らない自分が恥ずかしいし、もどかしいし、悔しいし申し訳ない。」羞恥心でいっぱいでした。
ちょうどこの頃でしょうか、帰国後の選択講座で「通訳案内士」という職業があることを知りました。いわば「民間外交官」のような職業であり、日本の魅力をボトムアップで外国人に伝えること(ガイド業)が仕事の通訳案内士。まさに私がやりたいこと「天職」であると直感し、雇用形態が基本はフリーランスが基本であることは理解しながらも、ゆくゆくはガイドとして第一線で活躍したい、そのようなキャリアを築きたいと具体的に思い描くようになりました。
新卒:大手旅行代理店に入社するも、体調不良により半年で休職
修行期間としてまずは3年、旅行代理店で基礎を固めることを決意
かくして、将来はフリーランスになると決意するわけですが、さすがに新卒フリーランスはあまりにもリスクが大きすぎることは承知していました。せっかく持っていた有名四大の新卒カードを棒に振ることにもなるので、卒業後せめて3年は修行期間として旅行業の基礎知識を積むことに。大手旅行代理店から無事内定もいただけ親も大喜び、卒業後の進路は順風満帆に進むだろうと思っていたのです。
カルチャーが合わず半年で体調不良、休職に
語学力を買われたこともあり、配属されたのはフェリーターミナルからすぐ側の店舗。富裕層も多く暮らすエリアかつ代理店ながら日曜休みということもあり、本当にラッキーだったと思っていました。
とはいえ、喜ぶのも束の間。その店舗は、お局を筆頭にドロドロの女性社会が形成され、配属された新入社員がもれなく2年以内で辞めているブラック店舗だったのです。
私はそれまで、風通しがよく裁量権のある環境でしかアルバイト・部活経験がなかったので、まさに天と地ほどの差。上下関係の厳しい体育会系カルチャーは初めてであり、家族以外の誰かから叱責された経験もなく全く耐性がありませんでした。また叱責されるとさらに萎縮してしまい、本領が発揮できなくなるタイプだったので、カウンター裏に呼ばれる度に耳鳴りが。しまいにはストレスから突発性難聴になったのですが、上司からは「私もなったよ笑」と一言で片付けられる始末。
ミスをする度に厳しく叱責され、思わず涙腺がゆるむと「泣けば許されると思っている」とさらに叱責されるという悪循環。また、その店舗では残業が一切認められなかったので、残務タスクが山のように積み重なっていったことも日々大きなストレスでした。
また店舗には、ベテランながら家庭の事情で雇用形態がパートの人もいたのですが、私の方が給料が上だったことを日頃から根に持っていたのか、更衣室で二人きりの際に「私より給料が上なんだから」と、お金のことを持ち出され叱責されました。給料が上といっても、当時で手取り16万円程度のわずかなものだったのですが..お金のことを持ち出されたところで、自分にはどうにも出来ませんよね。あの頃からか、私には精神的な逃げ場というものが完全に失われてしまったように感じました。
ある日、いつものようにクローズ間際に叱責されていた際、あまりに顔がぐしゃぐしゃになってしまったのでトイレに駆け込んだのですが、戻ってくると「なんで逃げてるの!あなたのせいで残業がついて店の評価が下がるじゃない!」とまた一言。涙を流すことさえ許されないのだと悟った瞬間、体の震えが止まらなくなり、次の日に精神科でドクターストップを受け休職となりました。
メリットデメリットを比べても、会社に戻る必要性が感じられなかった
休職してからは月イチで精神科に通いつつ、療養という名の下ニートのような生活。当初は、これで少しは楽になれると思ったのですが、周りが皆頑張っている中で自分だけ廃人のような生活を送っていると、社会不適合者の烙印を押され「社会から必要とされていない」事実をまざまざと実感しているようで、それもそれで本当に苦しかったです。(糸井重里さんの「働きたい。」を読み始める始末。笑)
また、家族は優しく接してくれましたが、父親は当初「一度休職したらもう戻れなくなる」と休職に反対していたのと、母親もどこか腫れ物に触るように過剰な気遣いがかえってしんどく、家にいるのも辛くなりました。幸い蔦屋家電が近所にあったので、毎日のように通っては自己理解やキャリア、理想のライフスタイルについてインプットする日々。また、時たま旧友に会いこれからのことについて相談しました。
選択肢は2つ、休職明けにまた元いた部署に戻り頑張って働くか、思い切って退職するか。ただし、前者を選んだところで人事異動で人が変わっている保証もないため、同じことを繰り返し休職する可能性もありました。またその他にも、隅々まで浸透した大手カルチャーとアナログな業務システムに、将来を危惧していたのも事実。「この会社に入れたからには将来は安泰だ」というような腐敗した風潮が、同僚はもちろん組織全体に蔓延していたんですよね。もちろん、理想のロールモデルとなるような上司もおらず、将来起業やフリーランスなどのキャリアを想定していた私のような人間は異色すぎたようでした。
業務内容も、会社独自に開発した昔ながらのソフトに紙の時刻表やパンフレットであり、DXやエシカルが叫ばれる時代に逆行しているかのような有り様。「将来転職を考えたときに、他で通用するスキルは得られるのか?」と考えた時に、正直コミュニケーションスキルぐらいしか思いつきませんでした。だったらこの会社でなくとも得られるという結論に。また、入社当初から独学で全国通訳案内士(国家資格)の資格勉強も並行して進めていたのですが、ちょうどその頃試験本番を迎え無事合格できたこともあり、「やはりオリンピックまでに活躍できるようなガイドを目指したい」と思い切って退職することにしました。もちろん親は反対しましたが、3ヶ月の説得の末、私が本気で訪日インバウンド業界のキャリアを求めていることを最終的には理解してくれました。
そんなこんなで、資格はゲットできましたが実務経験はもちろんゼロ!笑 こうして波瀾万丈のフリーランスキャリアがスタートすることになりました。
【中編】ではフリーランス時代の悪戦苦闘についてお伝えします!
いかがでしたか?もう6年も前のことだと思うと、もはや当時が少し懐かしい気持ちさえします。もちろん戻りたくはないですが。笑
あれから変わったことといえば、元いた会社がコロナで経営不信に陥り、店舗の半数近くが閉業・元同僚の多くが転職を余儀なくされたことでしょうか。私が勤めていた店舗もなくなり、メンバーは散り散りになってしまったようです。私が飛び出したのが少し早かったのですが、結果やはりこの変化の大きい時代に「絶対安泰」は存在しなかったわけですし、あの時の決断は間違ってなかったと思っています。
▼次の【中編】では、フリーランス時代の悪戦苦闘についてお伝えします!